書かれなかった韓国紀行、夏目漱石「満韓ところどころ」   

2009年 09月 28日

 夏目漱石が「満州」旅行を終えそのまま韓国に入り滞在していたのがちょうど100年前、
1909年9月末から10月の半ばであった。紀行文を『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として
10月末から年末まで連載したが、タイトルと異なり実際には韓国に触れた項目はなく文中で間接的に触れる程度である。

 旧友の「満鉄総裁」中村是公の誘いにのった旅であり、中村としては人気の作家に「満州」の「宣伝」をしてもらう魂胆があったのだろう。
 しかし10月26日に伊藤博文の射殺があり、もともと韓国での滞在、旅行記を書く心境でなかったのであろうか。
中国での記述を最期に大晦日に連載を終了をしている。
 なぜ書き継がなかったのであろうか。

 ただアン・ジュングンの伊藤狙撃に関しては翌年三月から連載を始めた小説の「門」で登場人物の会話で描写をしている。

「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨そうに飲んだ。御米はこれでもができなかったと見えて、
「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目な顔をして云った。御米は、
「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたいなような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」

 光州在住の市民ネット・メンバー、漱石研究者として漱石作品の韓国語への翻訳がある金正勳さんは、
『門』に描写されるアン・ジュングンの「事件」をテーマの一つとして、
「漱石の『門』に投影される国家イデオロギーの翳―冒頭場面と「罪」の問題をめぐって―」の題で
「社会文学」第二三号、二〇〇六年二月、日本社会文学会に掲載をしている。

 金正勲さんは論文中で「漱石は朝鮮をどう思っていたのだろうか。このことは、私のような韓国の研究者には何より重要な問題である。
が、同時に回避したい問題でもある。敏感に感じるところを正面から触れずには通れない苦痛のようなものが、そこに伴うからであろう。」
として「漱石の矛盾は、個人的な問題を離れ、東西洋を見る観点に拘って考えると、西洋を見るのと東洋を見るのに不合理性が見出されるところにある。

 そして漱石と朝鮮を結びつけて考えれば、日本と朝鮮との関係において、朝鮮からの意識と視点を十分持ち得なかったところにある。
特に漱石は、日本帝国の侵略が朝鮮や他の大陸を犯しつつあった時、同情はしていたものの、日本帝国の臣民の立場から脱皮できなく、
植民地主義についての理解に乏しかったように見える」語っている。

しかし「……しかも物語の展開においても彼らの人物は、諧謔とユーモアに豊富な姿を見せていて、
目をテクストから離せないよう読者を物語の深いところへ導いていくのだ」とも論じている。
(近々、日本の出版社から一連の漱石作品に関する論究がまとめられ刊行される。)

 漱石における個人主義と国家主義は図式的に「整理」されるものではないのはもちろんであるが、
研究者によって評価の違いがある。個人主義に重点をおく立場の研究が近年は多く見受けられる。
 また「未成熟」な日本国家、社会への批判を「国家主義」へとつらなる立場という評価もあり、
近代文学の研究者によって議論され続けているところであるが、アジアの社会をみるときに天皇国家の「国民」、
支配する側、帝国の立場が無意識に潜んでしまう限界は「満韓ところどころ」の紀行で顕在される。

 しかし一方で晩年における堺利彦への間接的な「支援」、
生業を作家とし国家に組み込まれない立場を選択したことも事実である。

 先月、たまたま知人の詩人が主宰をしている文学ゼミが漱石の小説「それから」を課題にした。
「朝日新聞」に紀行「満韓ところどころ」をはさみ、小説「門」の前に連載していた小説であり、
1909年6月27日から10月14日まで東京と大阪の「朝日新聞」に掲載された。脱稿は8月14 日である。

 漱石は政治家を巻き込んだスキャンダルの日糖事件や、弟子の小説「煤烟」を話題にして自身の小説に取り入れ
三面に掲載される新聞小説で記事を「再構成」している。

 その話題の一つに幸徳秋水らの活動に対して政府、官憲の監視が厳しいことをやはり登場人物に語らせている。
 幸徳秋水がアン・ジュングンの伊藤射殺を快挙として漢詩を詠んでいるが、幸徳にとって五ヶ月前に天皇国家、官憲による
徹底した弾圧を受けたことが、アンジュングンの立場に「近づき」得たのではないか。

『救援』という月刊新聞に昨年五月から「大逆事件の救援史」というタイトルで連載をしている。
 昨年が「無政府共産」の赤旗事件から百年であり、その過剰な弾圧から書き始めた。
 赤旗事件で実刑を受けた大杉栄は二年前の東京市の市街電車の運賃値上げ反対の集会でも
弾圧を受け実刑判決となっている。
 漱石は「野分」という小説で、このいわゆる「電車事件」で逮捕された社会主義者の救援をめぐって
同情的な内容で描写をしている。
「それから」で登場人物の会話で間接的に触れられるのは千駄ヶ谷の「平民社」である。
100年前の春から宮下太吉が出入りをし、宮下は個人で規模の小さい爆裂弾を製造し明科で11月に試爆している。
幸徳は管野須賀子たちと運動紙『自由思想』の発刊を準備していた。
 6月にその千駄ヶ谷の平民社を幸徳の友人である朝日新聞記者、杉村楚人冠が訪ね、
やはり三面に署名記事で訪問記を掲載するのである。

 平民社への監視のことなど、以下のブログに紹介。
http://nikkan100.exblog.jp/9038854/
 赤旗事件、大逆事件などは下記サイトにアップしています。
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/anarchism-katsudo-danatsu.html
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# by nikkan100 | 2009-09-28 15:25 | 韓国

黒百合平から赤岳、美濃戸口   

2009年 09月 26日

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黒百合平 5時55分 山小屋は「黒百合ヒュッテ」

 体調を崩していたのですが26日土曜夜に40人規模の「宴」の進行役が美濃戸口、太陽館であり、どうせならば八ヶ岳の南北の過半を縦走とプランをたてました。
 前日の昼にピラタスロープウェイで11:25 頂上駅着。縞枯山、茶臼岳、丸山、中山を経由して黒百合平着。16:00。
 17年前に赤岳鉱泉発、硫黄岳に登り縞枯山、縞枯山荘まで縦走をしたことがある。
 
 ヒュッテは素泊まり5,300円、前日早朝、プリンターのインク切れで補給に自宅近くの「西友」に探索に行きました。インクは無く、代わりに食品売り場で一個、66円から88円のおにぎり八個と
ナビスコ、クラシック・クラッカー、チョコレートを購入。四食分の費用、1,000円。
 土曜の宴が待ち構えているので、準行動食で耐えることにしました。結局、おにぎりは二個余りました。

 装備は2Days Pack。トレイルランニングシューズ。天候に恵まれ、ウェアはショートパンツ、半袖のトレイルランニング・シャツで縦走路の95%を過ごしました。
 万が一降雪があっても対応はできるウェアは用意してありました。

 予想外は水分補給に関して。
 500ミリリットルの「テルモス」に冷たい水。同量のミネラルウォーターの
ペットボトル。 計1ℓ、常に500ミリリットルはキープする予定。しかし硫黄岳で50円で500ミリリットルを補給したが、900ミリリットルを飲み。赤岳頂上で残り100ミリリットルになってしまう。おにぎり、クラッカーという準行動食を食べる時に水分をより必要としていた。
 50分後、文三郎尾根を下り行者小屋前の水場でたっぷりと飲み、水筒、ボトルにも補給。
また降雪、降雨量の少なさで各山小屋は例年に比して水不足。
 例外は硫黄岳。トイレもウォシュレットが装置されているという。水源からポンプアップをして「豊富」なようだ。

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陽はすでに昇っています。佐久方向。


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天狗岳に向かう途中です。

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一番奥が蓼科山です。

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雲海はまだ下の方ですが、だんだんと上がってきます。

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正面が北八ヶ岳、硫黄岳の爆裂火口、奥が横岳

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赤石山脈が遠望できます。

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天狗岳の頂上から根石岳を望む

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頂上標識、雲海が下です。


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根石岳

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正面が赤岳、右下に根石山荘が見えます。今年は水不足。展望風呂は無し。

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箕冠山頂上は樹林の中

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山びこ荘、ヤマネが来る小屋、暖かい珈琲を飲むつもりが「カップラーメン」350円。
小屋番とのおしゃべりがはずみ、予定外に35分休息

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小規模風力発電。鳥は巻き込まれないのでしょうか。

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横岳 標高2,829m

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横岳奥の院から赤岳

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横岳を越えて、京都、長岡京の単独者。赤岳頂上小屋に宿泊とのこと。

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標識、ここに上がるルートは使ったことがありません。

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地蔵の頭から赤岳ピークを望む。

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赤岳、頂上並びの休息スペース。到着をしてからしばらくして撮影。
霧があがって来ていたので頂上からの展望は無し。

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下りで発見をしましたが、凝ったプレートです。

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赤岳からの下り。積雪期も含めての補助鎖

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紅・黄葉

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行者小屋13時5分着、23分発 この後、途中ランニング、美濃戸口15:15

昭文社「山と高原地図」による「コースタイム」は黒百合平から美濃戸口まで10時間。
9時間20分。休憩時間は1時間50分程度。歩・走行時間 7時間30分


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北八ヶ岳連峰





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行者小屋前から縦走路を仰ぎ見る
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# by nikkan100 | 2009-09-26 19:43 | 山歩き

北八ヶ岳   

2009年 09月 25日

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# by nikkan100 | 2009-09-25 19:39 | 山歩き

大邱の山   

2009年 08月 30日

市の西部です
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 夏の終わりに釜山から最終の高速鉄道に乗り大邱・テグに深夜に着いた。
 十年にわたる韓国訪問で大邱は初めてであった。正式名称は大邱広域市。韓国第三の都市といわれ人口は二百五十万人余り。大邱在住の大学教授、日本人のOさんの案内により翌日の昼迄滞在することにした。午後にはソウルへ向かう所用があった。
 大邱は観光の地ではなく歴史的な事件の発端の地として私の記憶に刻まれていた。
 八十年前の社会運動紙の記事から引用をする。《大邱監獄に於て服役中彼は肺患に罹り一九二八年四月最早見込みなしと認めてか出獄を許され、父親に抱かれて京城の自宅へ帰つたのである。この時それを目撃した同志の話に依れば、彼は見苦しい程やせてまるで骸骨のやうで見るに忍びぬ哀れな姿だつたと。家の周りはスパイの奴が二、三人目を張つて厳重な警戒をしていて、同志友人等の訪問も自由にならなかった……多量の喀血をなし遂に彼は三九の青春を空しく終った》『自由連合』紙より。彼とはペンネーム金墨、本名金正根のことである。著名ではないが朝鮮の一独立活動家であり、二六年の金子文子の獄死後に警視庁の警戒を出し抜き遺骨を安置し追悼会を催した。その報復により治安維持法違反の事件にフレームアップされた。

 
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 翌日、Oさんに案内され仕事先の大学キャンパスの後背地にある低山を登った。傾斜地に建つ校舎を抜け、施設のあいだの踏み跡も消えかかっているルートに入り込む。夏の草群れをかき分けるとじきにハイキングルートにつながった。狭い尾根道をマウンテンバイクを押して少年たちが前後して上がってきた。                
 
 金正根が巻き込まれたのは大邱で結成された真友聯盟への関与である。日本政府は関東大震災を機に二五年五月、治安維持法制定へと至った。事件は二六年一〇月、大邱地方予審に廻された。金子文子の追悼に関わった栗原一男、椋本運雄、金正根の三人が警視庁から大邱に送られ調べを受けたが起訴できる根拠はなく免訴になった。ところが検事が覆審法院に抗告し同院は免訴を取消してしまった。          
 

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 山道を進むと一メートル前後の石積みが幾つか現れた。石の素材が山道に露出しているのとは異なる。運ぶにしても大変な労力が必要である。秀吉の侵略時、「壬辰倭乱(一五九二年)の前から大邱周辺の山には山城が造られていた」という。この低山から連なる臥竜山・ワリョンサンは古くからの伝説もある市民の憩いの市周辺の山として有名である。そこから山城が続いていたことは考えられる。長い歳月を経て城郭が崩れ石積みはその遺物を利用した可能性もある。
 尾根道の開けた箇所で市街地が見えはじめた。三百五十万の大都市は中心地の周辺に高層アパート群が点在している。八〇年前、金正根は何処に住んでいたのであろうか。       
 
 三人は公判に付され二七年六月二五日の判決で栗原、椋本は懲役三年、金は懲役五年の実刑を言渡され即日に下獄をした。椋本、栗原は二九年六月一九日満期になって釈放となっている。予審における決定書を引用する。「被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが…」と金正根の思想が問われ、連絡をとっていた真友聯盟が具体的に活動をしていなくても強引に事件とされたのである。 

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頂上は樹々が開け花崗岩が露出していた。登り口から四〇分ほどかかった。大邱の街はさらに広く望めた。頂上に佇み街を見つめているうちに二〇年代の出来事に思いをはせた。金正根が囚われていた監獄は街の中心地に近かったのであろうか。


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 現在の大邱で彼のことを知る住民はいないであろう。名も無い山と思っていたが尾根道の分岐にハングルで記された案内標識が頂上を指していた。「クンサン頂上」と書かれていることを教えられた。「クン」は宮廷の「宮」の意味らしい。登りと違うルートを選び再び大学構内に戻った。

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 韓国の日刊紙「ハンギョレ」新聞、一〇月二八日号が大邱の案内記事を掲載している。(同紙の記事をヴォランティアの方が邦訳してブログに掲載している)。「朝鮮王朝時代に釜山と漢陽(現ソウル)を結ぶ交通の要衝であり、全国から漢方薬が集められ取り引きされた商業の都市であった」とある。 
 大邱は内陸であるが盆地で市内を大きな河が二つ流れている。水運の時代の中継地として発展したのであろう。
「一八九〇年ごろ、大邱へ初めて二人の日本人がやってきて開発をしてしまう……大邱神社が建てられ、鳥居が皇居の方を向いていた……こういう人の集まる市場などで抗日の運動が起こった」との記述である。韓国の地域の歴史が語られるうえで日帝や日本国民の為した侵略の事象は避けられない。
 市の中心部に触れ、「香村洞周辺は一九二〇年代から解放前までは漢江南で最大の繁華街であり五万人余りの日本人が居住し金融・商権を掌握していた」とある。
 他の記述では「秀吉の侵略時に明の武将、杜思忠が帰化、定着し桑の木を植えて暮らしたことに由来する名前」から「桑の木路地・ポンナムコルモク」と由来ある路地が紹介されている。大邱の街にこの次に行く時は、金正根たちが歩いたであろうポンナムコルモクを訪ね歴史の旅をしたい。


「ハンギョレ・サランバン」該当記事


季刊雑誌『山の本』70巻 2009年12月刊行 掲載 エッセィ 連載「読書三到」40

地下鉄を利用。KTXにて移動。
夕方にソウル着、江原道料理の食堂にて、B君の案内。東廟近く。
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# by nikkan100 | 2009-08-30 09:07 | 韓国

釜山2009年夏   

2009年 08月 29日

釜山・広安里「相生グゥ」夕方5時から始まる。


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 夕方5時からは、天皇を頂点とした日帝の軍隊により性奴隷とされた
「挺身隊」のハルモニたちへの「相生グゥ」は夕方5時から始まる。
 釜山の広安里は東海に面した海岸が広がる海水浴場であり
ホテル、飲食店が道路をはさみ砂浜に沿って並び、会場は仮設の客席が三方に設置され
東海に面した一方は祭壇。
 ダンスや演劇的な表現が多く入り伝統的な「巫女」あるいは巫子が霊を迎えて
送り、詩も含めハルモニたちの想い、またハルモニたちへの想いが表現され進む。
 半月は真上に位置し、打ち寄せる波のリズムと伝統音楽によるリズムが
同調、表現者の身体の動きに魅了されました。
 移動の都合で9時に離れましたが、11時過ぎまで続くとのこと。

釜山・民主公園
http://japanese.bsjunggu.go.kr/03_culture/park_democracy.php
4.19民主革命、プマ民主抗争、6月抗争を記念する
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午後からはワークショップにも参加をした李Gwang Hoさんが館長を勤める、
釜山の民主公園、民主抗争記念館へ案内をしてもらう。公園、記念館の建設費は国、釜山市などが負担、運営は民間の「事業委員会」が担っているとのこと。400人と150人のホールを有している。日本語の案内リーフ、映像は日本語ナレーションのものがあり
観ることができた。
 スタッフにも日本語を話せる方がいる。場所は九峰山の峰の最突端というのか、国際埠頭ターミナル、地下鉄「中央洞」駅の西北、ジャガルチ市場の真北、釜山駅から西南西、タクシーで15分程度である。
 URLは釜山広域市中区の公式日本語サイト
http://japanese.bsjunggu.go.kr/03_culture/culture_busan.php
 引用「釜山の民主化の為の闘争とその精神を誉め称えるために釜山民主公園助成市民推進委員会が主体になって助成された公園である.
 民主化のプロジェクトとしての展示内容を構成するのである.民主抗争の過去に対しての再照明とこれを現代的,未來的に継承,完成する遅速的で実践的な概念で民主化プロジェクトの内容を想定し,釜山民主抗争を中心で韓国の民主抗争の信仰した姿を再び解釈する事件的な軸と生活と生体環境などの文化的な軸の連係表現を通じて民主主義の再解釈,日常の実践の中に拡張を誘導する.また過去の記錄解釈からはじめ,時間と空間を乗り越えて人間お技術,自然が共生する「民主主義の再解釈」を国内外的にイシュとして提示する」
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# by nikkan100 | 2009-08-29 08:44 | 韓国