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「是也金宗鎮伝」李乙奎著   

2009年 10月 14日

「是也金宗鎮伝」李乙奎著    
季刊『アナキズム』誌掲載論文(続)(「西京二」名による部分翻訳とまとめ)の要約
★抗日運動の武闘派・白治金佐鎮将軍を指導者とする朝鮮人無政府主義者の闘いは10年にもみたない時期であった。新民府(後に、韓族総連合会へと発展的解消する)との合作でもあった。

★1926年頃には西間島中心の参議府、吉林中心の正義府、吉林北方からソビエト・満州国境中心の新民府の各々に、軍隊・学校・徴税等の行政機能を持つ三つの運動体に整理されていた。
★1925年の朝鮮共産党解党以後、ソウル派、ML派、火曜派等の分派としてあった朝鮮人共産主義者の運動もソ連=コミンテルン、中国共産党満州総局を背景としつつ存在していた。
★民族主義派の三府は日帝の満州侵略の野望、共産主義者の台頭に対抗して、1927年に吉林で統合、国民府の設立を企てるが中絶してしまう。

★新民府と合作した無政府主義者の闘いは、人民を主体とした朝鮮の解放を目指したものだった。人材の不足、資金の欠乏で運動の展開も思うにまかせないうちに共産主義者のテロ、

1930年1月には金佐鎮、
31年7月には金宗鎮を暗殺するといった攻撃に抗し切れず、結局自壊してしまう。

★当時の共産主義系の文書では必ずといえるほどに、新民府=韓族総連合会を日帝の手先などと中傷する文句を見ることが出来る。この運動がそれまでの民族主義者とは異なり、共産主義とは非妥協的だが大衆的な運動であったために、抗日運動の一党支配を目的とした共産主義にとって大きな敵対勢力であった。
★新民府=韓族総連合会はそれまでの抗日運動体とは異なり、僑胞農民の定着化、自主自治的生活組織を育てる中から抗日の戦士を生み出そうと、小中学校の設立、共同の精米所経営等を着実に進めていたのだ。
★《金宗鎮》略伝
1919年3月7日、洪城の民衆デモの先頭で闘い、日帝に検挙される。3カ月後未成年のため釈放。(註、17歳か?)ソウルに移り、抗日地下運動に参加。29年夏、李会栄を訪ね討論、無政府主義者になる。遠縁の金佐鎮を訪ね共に新民府を改編、韓族総連合会を設立。李乙奎等と共に在満朝鮮無政府主義者連盟を結成。31年7月11日、共産主義者に拉致され以後の消息不明。
綱領
一、我々は人間の尊厳と自由を完全に保障した無支配の社会の具現を期する。  
二、社会的にあらゆる人間は平等であって各人は自主創意と相互扶助的自由合作による各人の自由発展を期する。
三、各人が能力により、生産に勤労を奉仕し、各人の需要に応じて消費する経済秩序確立を期する。  
当面綱領  一、我々は在満同胞たちへの抗日反共思想の啓蒙および生活改革の啓蒙に献身する。  
二、我々は在満同胞たちの経済的文化的向上発展を促成するために、同胞たちの自治合作的協同組織への、在満同胞たちの組織化促成に献身する。  
三、我々は抗日戦力の増強のためにまた青少年たちの文化的啓発のために青少年教育に全力を捧げる。  
四、我々は韓僑の農民として、農民大衆と共に共同労作し自力で自己生活を営むと同時に農民たちの生活改善と営農方法の改善および思想の啓蒙に力を注ぐ。  
五、我々は自己事業に対する研究と自己批判の定期的な報告に責任を負う。  
六、我々は抗日独立戦線で民族主義者たちとは友軍的な協調と協同作戦的義務負う。
(この項、2000.5.30にまとめ) 2001.5.9



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by nikkan100 | 2009-10-14 18:51 | 歴史

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