大邱の山   

2009年 08月 30日

市の西部です
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 夏の終わりに釜山から最終の高速鉄道に乗り大邱・テグに深夜に着いた。
 十年にわたる韓国訪問で大邱は初めてであった。正式名称は大邱広域市。韓国第三の都市といわれ人口は二百五十万人余り。大邱在住の大学教授、日本人のOさんの案内により翌日の昼迄滞在することにした。午後にはソウルへ向かう所用があった。
 大邱は観光の地ではなく歴史的な事件の発端の地として私の記憶に刻まれていた。
 八十年前の社会運動紙の記事から引用をする。《大邱監獄に於て服役中彼は肺患に罹り一九二八年四月最早見込みなしと認めてか出獄を許され、父親に抱かれて京城の自宅へ帰つたのである。この時それを目撃した同志の話に依れば、彼は見苦しい程やせてまるで骸骨のやうで見るに忍びぬ哀れな姿だつたと。家の周りはスパイの奴が二、三人目を張つて厳重な警戒をしていて、同志友人等の訪問も自由にならなかった……多量の喀血をなし遂に彼は三九の青春を空しく終った》『自由連合』紙より。彼とはペンネーム金墨、本名金正根のことである。著名ではないが朝鮮の一独立活動家であり、二六年の金子文子の獄死後に警視庁の警戒を出し抜き遺骨を安置し追悼会を催した。その報復により治安維持法違反の事件にフレームアップされた。

 
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 翌日、Oさんに案内され仕事先の大学キャンパスの後背地にある低山を登った。傾斜地に建つ校舎を抜け、施設のあいだの踏み跡も消えかかっているルートに入り込む。夏の草群れをかき分けるとじきにハイキングルートにつながった。狭い尾根道をマウンテンバイクを押して少年たちが前後して上がってきた。                
 
 金正根が巻き込まれたのは大邱で結成された真友聯盟への関与である。日本政府は関東大震災を機に二五年五月、治安維持法制定へと至った。事件は二六年一〇月、大邱地方予審に廻された。金子文子の追悼に関わった栗原一男、椋本運雄、金正根の三人が警視庁から大邱に送られ調べを受けたが起訴できる根拠はなく免訴になった。ところが検事が覆審法院に抗告し同院は免訴を取消してしまった。          
 

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 山道を進むと一メートル前後の石積みが幾つか現れた。石の素材が山道に露出しているのとは異なる。運ぶにしても大変な労力が必要である。秀吉の侵略時、「壬辰倭乱(一五九二年)の前から大邱周辺の山には山城が造られていた」という。この低山から連なる臥竜山・ワリョンサンは古くからの伝説もある市民の憩いの市周辺の山として有名である。そこから山城が続いていたことは考えられる。長い歳月を経て城郭が崩れ石積みはその遺物を利用した可能性もある。
 尾根道の開けた箇所で市街地が見えはじめた。三百五十万の大都市は中心地の周辺に高層アパート群が点在している。八〇年前、金正根は何処に住んでいたのであろうか。       
 
 三人は公判に付され二七年六月二五日の判決で栗原、椋本は懲役三年、金は懲役五年の実刑を言渡され即日に下獄をした。椋本、栗原は二九年六月一九日満期になって釈放となっている。予審における決定書を引用する。「被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが…」と金正根の思想が問われ、連絡をとっていた真友聯盟が具体的に活動をしていなくても強引に事件とされたのである。 

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頂上は樹々が開け花崗岩が露出していた。登り口から四〇分ほどかかった。大邱の街はさらに広く望めた。頂上に佇み街を見つめているうちに二〇年代の出来事に思いをはせた。金正根が囚われていた監獄は街の中心地に近かったのであろうか。


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 現在の大邱で彼のことを知る住民はいないであろう。名も無い山と思っていたが尾根道の分岐にハングルで記された案内標識が頂上を指していた。「クンサン頂上」と書かれていることを教えられた。「クン」は宮廷の「宮」の意味らしい。登りと違うルートを選び再び大学構内に戻った。

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 韓国の日刊紙「ハンギョレ」新聞、一〇月二八日号が大邱の案内記事を掲載している。(同紙の記事をヴォランティアの方が邦訳してブログに掲載している)。「朝鮮王朝時代に釜山と漢陽(現ソウル)を結ぶ交通の要衝であり、全国から漢方薬が集められ取り引きされた商業の都市であった」とある。 
 大邱は内陸であるが盆地で市内を大きな河が二つ流れている。水運の時代の中継地として発展したのであろう。
「一八九〇年ごろ、大邱へ初めて二人の日本人がやってきて開発をしてしまう……大邱神社が建てられ、鳥居が皇居の方を向いていた……こういう人の集まる市場などで抗日の運動が起こった」との記述である。韓国の地域の歴史が語られるうえで日帝や日本国民の為した侵略の事象は避けられない。
 市の中心部に触れ、「香村洞周辺は一九二〇年代から解放前までは漢江南で最大の繁華街であり五万人余りの日本人が居住し金融・商権を掌握していた」とある。
 他の記述では「秀吉の侵略時に明の武将、杜思忠が帰化、定着し桑の木を植えて暮らしたことに由来する名前」から「桑の木路地・ポンナムコルモク」と由来ある路地が紹介されている。大邱の街にこの次に行く時は、金正根たちが歩いたであろうポンナムコルモクを訪ね歴史の旅をしたい。


「ハンギョレ・サランバン」該当記事


季刊雑誌『山の本』70巻 2009年12月刊行 掲載 エッセィ 連載「読書三到」40

地下鉄を利用。KTXにて移動。
夕方にソウル着、江原道料理の食堂にて、B君の案内。東廟近く。
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by nikkan100 | 2009-08-30 09:07 | 韓国

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