「らかれそ」
石 漱
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夏目漱石は一九〇九年六月二七日から十月一四日まで(八月一四日脱稿)『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に連載した小説「それから」にこの官憲の監視状況を描いている。
連載開始は二七日であるが、六月七日、八日に幸徳の友人である朝日新聞の記者杉村楚人冠こと廣太郎が幸徳訪問記を「幸徳秋水を襲ふ」と題し三面に署名記事で書き、幸徳から指摘された官憲の監視の様子を記述している。
漱石は直接、杉村から聞いたのか、また『自由思想』を読む機会があったのかもしれない。
該当部分を引用する。「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。」
杉村の「幸徳秋水を襲ふ」を引用する。
「九人の同志尽く獄に下つて己れ独り孤塁に拠つた無政府主義の大将幸徳秋水君を試みに平民社に訪ふ、千駄ヶ谷九百三番地と聞いた許りで八幡知らずの様な町町を尋ね廻つてやつと其家を探し当ると幸ひに自宅にいたことは居たが大将座敷の真中へ床を取つて寝ている、
僕の顔を見るなり秋水君づかづかと起きて僕を玄関口迄連れて行く、おい一寸彼れを見て呉れと指さす所を見れば、街道を隔てた此家の前の畑の中に天幕が立つて紅白だんだらの幕が下つて居る、之が巡査の詰所で此処で秋水君の一挙一動来訪者の誰彼尽く見張られて居るのである、何んでも始めの頃は野天で立番して居たものだが夜中や雨の折が困ると思つてか近頃此の天幕が出来た、巡査は昼夜の別なく四人掛りの見張通しで、其中二人し此の天幕に、後の二人は家の後の原の中へ蓙を敷て張番しているとのことだ、此の巡査の手不足な折柄に一幸徳秋水の為に四人の巡査が掛り切とは余りとしても贅沢すぎる……」
「巡査が尋ねて来る人の姓名を一々誰何する」、幸徳の同志を「尾行をする」、「同志である車夫の野沢、飴屋を始めた渡邊という友人、高島という書物屋(ほんやとルビがあり、出版社を経営している高島三申のことか)の親父は尾行と親しくなる」。
「此等東京中の注意人物には行幸啓中もある折特に厳重に其の挙動を監視することになつて必ず一、二名宛の巡査を一人一人につける『皇室に危害を加へる恐れがあるとでも思つているのだらうが誰がそんな馬鹿な真似をするもんか』と秋水君は笑つた」と、この一年後に大逆罪で囚われることは予測できずに語っている。この時点で杉村は幸徳への取材という形をとり日本という天皇国家が監視国家であることを読者に伝えている。
翌日の後編では社会主義研究の歴史が七、八年前に始まったこと、「日露戦争の時に『平民新聞』が出来、社会主義の運動としては之が日本で真最初のものであつた」ことが書かれ、幸徳の渡米に触れつつ、今日は片山潜の社会民主主義と幸徳の『自由思想』を機関とした無政府共産主義の二派ばかり、同志たちの入牢、警視庁の厳重な取締、自由思想発行に対する弾圧があり大同団結で同志は幸徳と行動を共にすることになつて来たといふ」と幸徳との懇談を伝える。
「社会主義と無政府主義の異同優劣などに就て僕等はやゝ暫く問答もすれば議論もして見た、が併し僕は今夫を一々此に書いて朝日新聞社の前に天幕を立られるのを待つ勇気はない」と皮肉も込めた記述が続く。
二葉亭四迷の客死の話題が出て、杉村は『君も桑港辺で死んでいたら今頃はえらいものに祭り上げられて居たらう』と言へば『いや祭り上げられるより生きてる方が宜い、夫にしても金が欲しいなァ』とつかぬことを言ひ出す。
一年半後に幸徳は「私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る」と『死生』のテーマで語っている。「一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった、杉村楚人冠は私に戯れて、『君も先年米国への往きか帰りかに船の中ででも死んだら偉いもんだったがなア』と言った。彼れの言は戯言である、左れど実際私としては其当時が死すべき時であったかも知れぬ、死処を得ざりしが為めに、今の私は『偉いもんだ』にならないで『馬鹿な奴だ』『悪い奴だ』になって生き恥じを晒して居る、若し此上生きれば更に生恥じが大きくなるばかりかも知れぬ」と、
平民社での杉村とのエピソードに触れる。
「いざ帰らうとすると秋水君停車場迄送つてやらうといふ、乃ち連れ立つて今度は裏の木戸から出る、木戸の外に成程蓆が一枚敷いている。巡査の張番する所だ」と誰も居ないので「今の間に潜と出てやらうぢやないかと囁きながら五六間行き過ぎると『オイだめだ来た来た』と秋水君が笑ふ、
ふり顧れば如何にも麦藁帽子を被つた一人の男が宙を飛んで駆けて来る、僕等は委細構はず新宿の方へ一二丁も歩いた後又後をふり向くと之はしたり何時の間にか追駆て来た男が二人になつている。電車に乗らうとすると処で初めて一人の男が怖々と僕に近いて『お名前は』と来た、僕よりも先君の名乗をこそと言へば懐かい探つて手帳を見せる、新宿警察署巡査海老澤何某書いてある、『確な人だよ』と幸徳君が言葉を添へる、何方が調べられてるのだか分らなくなつて了つた、」
と平民社訪問記を締める。
千駄ヶ谷・平民社1909年5月
合法的な運動、機関紙による表現に対して徹底的な妨害がなされたことが管野、新村忠雄たちが宮下太吉の登場を得て非合法な活動に向かう契機の一つになっている。詳細に渡るが引き続き紹介をして行きたい。
千駄ヶ谷に移った平民社では新たな活動のスタートもあり活動家の出入りは多かった。
『自由思想』の編集と共に実質「冬の時代」の社会主義者たち直接行動派にとって運動は再び前進しようとしていた。
無政府共産の「赤旗事件」で多くの主要な同志が獄に囚われ、壊滅状態に近くなったところから立直しが管野須賀子、幸徳秋水らによって図られたのである。
その社会革命への意気込みは発刊の序に著されている。しかしこの自由思想の要求を天皇国家、明治の専制政府が放置しておくはずはなかった。
創刊号は五月二五日発行。発刊の序は「一切の迷信を破却せよ、一切の陋習を放擲せよ、一切の世俗的伝説的圧制を脱却せよ…」と書き始められ、その思索の結果が英語のフリーソートであり訳して自由思想としたことを語り「今や吾人は切に大胆聡明なる自由思想を要求す」と宣言をしている。管野、幸徳たちが赤旗事件後の閉塞した直接行動派の運動を再建せんとし、自由に対する意思を前面に出した。
挿画は小川芋銭
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小川芋銭
創刊号の一面中心を小川芋銭の挿画が占めている。『熊本評論』紙にも小川の挿画は掲載されていた。小川は大逆事件に巻き込まれなかったが、弾圧された同志たちと社会主義運動における同伴者であり後年まで幸徳たちへの偲ぶ気持ちは続いていた。
小川芋銭は一八六八年、「江戸」が終わる寸前に赤坂の牛久藩邸内で生まれた。年少時に丁稚に出され苦労をしたが、牛久で養蚕に従事する傍ら九六年、『茨城日報』にコマ画の投稿を始めた。茨城における民衆派の新聞『いはらき』の主筆、中江兆民門下の佐藤秋蘋のつながりで一九〇三年に幸徳秋水、堺利彦との交友が始まった。
翌〇四年に週刊『平民新聞』に底辺労働者を描いた挿画を始めとし一年後の廃刊に至るまで俳句、短歌、短文も含めた多くの作品が掲載された。大逆事件の逆風下は旅に出ることでしのいだ。その十年後、二一年の米国内の六都市で開かれた巡回展に出品した「若葉に蒸さるる木精」「水虎と其眷族」は河童が主題であるが、その河童たちは幸徳秋水と同志たちを描写したものとなり偲ぶ作品となった。三八年、七〇歳で死去する。
管野須賀子の「ぬきが記」によると五月上旬から周辺の同志にも官憲による監視の強化がされている。抜粋をする。
二日《旧友中山君千駄ヶ谷の交番で「幸徳といふ家は何処です」「分らない」「社会主義者です」「ああ幸徳か君は一体何者だ」「中山君憤然として答へず、睨みつけて来たといふ」》
三日《竹内、戸恒の両君旅行して館林まで行つた時初めて尾行されて居る事を知つたといふ、呑気な人達哉》と尾行に気付かずに北関東に行った同志に触れている。
四日《奥宮健之氏来訪》とある。奥宮は社会主義者ではなかったが幸徳と旧知で爆裂弾の構造を幸徳が問い合わせたことで大逆事件の被告の一人とされ処刑された。
六日《『法律と強権』秘密出版があったとかで政府がマゴマゴして処々を調べて居る、竹内君などは警察へ呼ばれた上に家宅捜索を受けた、勿論平民社も探君の御来訪を辱ふした》。クロポトキンの小論文を翻訳し届けずに印刷、発行したことで関連弾圧を受けている。
七日《竹内、村田の両君の外に、至って意久地の無い女の私にまで今日から警察のお供がつく、癪を抑へて「出世したもんですね」》、管野須賀子自身にも五月七日から尾行がつき、平民社メンバーは全員が監視下におかれるようになった。
十一日には管野は鼻炎の手術をしている。《神田の橘田医師に肥厚性鼻炎を切って貰ふザクリザクリと骨をむしられる様で、余り気持ちの好いものじゃ無いが、少々痛快な感がする》。
秋水の動向もあり十三日「古河君から印刷所が要領を得たとの便りがある 日頃の愁眉を初めて 開かれた先生 徐に遽かに新聞を彼是れと引摺り出してァヽしやうか、かうしやうかと喜色満々」》。
十四日《秋水先生動向「数日前から歯科医に通って居られた先生、今日は殊に療治が荒かったので終日苦しまれる、然し痛いと口には出さないで『歯を治しておかないと演説ができないからなァ』》
『自由思想』創刊に対する妨害
創刊号の発刊は官憲による妨害を受けた。
五月二十五日の創刊を目指し届け出を出した四月九日からの経緯が創刊号三面に
「本紙の発行と迫害」として報告されている。
《最初に届出を済したのが四月九日で、同月廿五日に初号発行の手筈でした。編輯を了へ、校正を了へ、製版さへも了へて、将に印刷に掛らんとする間際に至つて、下の如きことを耳にした「曰く、神田警察署長は印刷会社の社員を呼出して『自由思想』は悉皆差押へることに決したれど印刷者の手より取上げる訳には行かねば、発行所へ引渡すと同時に差押へる手筈である、左れば一枚も散らさぬやう一纏めにして印刷所より車に積で発行所へ運送してくれ、警官は之に尾行し引渡しと同時に差押へることにする、……》
管野は怒る。
「未だ発行もしないのにかくも穏和なものを疾くに差押への準備をしている」
「この日は日曜にも拘らず署長が出勤し、なおかつ警視総監まで来て指揮して居る」
「印刷所の前後五カ所の入口には一人づゝ各袖巡査を配置して印刷物の運搬を見張つて居る新宿署でも、板橋署でも、芝署てせも、夫々数名の各袖を出して警戒させている云々」
と警視総監を筆頭に関連箇所、都心の警察署巡査の応援まで得て印刷所を監視下に
おいているのである。
「兎に角発行は許されない、印刷物を受取れば直ぐ差押へられて、
署名人は告発されることだけは疑ふ余地がなかつたので、
折角製版まで出来上つた苦辛と労力と時間と費用とを
犠牲にして怨みを呑んで印刷を見合せました」と弾圧を回避するために、いったん編集をした版をあきらめたのである。
さらに「吾等がダメだと諦めて引取たにも拘らず、其の翌日は神田署の更科警部が巡査久保某を従へて、印刷所へ出張し校正刷の枚数まで厳重に取調べ、翌々日は宮越署長が印刷会社社長竹内氏に面会を求めて、紙型版を吾等に渡さゞるやう相談し」、さらに竹内氏が運動に助力する形跡があれば印刷所に数名の各袖巡査をはりつけるという恫喝まで行う弾圧の激しい内容を記している。
「紙型版は遂に吾等の手に受取ることゝなりましたが、又其紙型を外へ持て行て印刷するのでないかといふので、夫は夫は厳重に調べて居ました。差押へられると知れたものを誰がムダな費用をかけて印刷するものですか」と徹底した機関紙発行への嫌がらせが続いたことを書く。
《甚しきは、幸徳などの書たものは絶対に禁圧する方針だからイクラやつてもダメだと忠告が頻々と来るので、全く断念しやうかと相談しました。しかし法律に触れないものを告発する訳にはいかない》と、第二回の計画に取掛ったこと、ようやく印刷所が見つかったが発行日まで幾日もなく原稿の締切りまで三日間しかない顛末を書いている。 その対応もあり発行は一ヶ月遅れた。
官憲の監視
『自由思想』二号のいわば平民社日誌となる「ぬきが記」で管野須賀子は発行までの官憲との顛末を語っている。
五月十日《上野から俥を飛ばして千駄木の友人を訪ふ、車上振返ると書生風のお供が、矢張り俥で追駆けて来るのでウンザリした。前夜来抜目なく支度してマンマと警戒の眼を眩まし、雨の中を先生と校正に行く△校正刷りの裏に赤インキで「壮哉、吹き倒す起る吹かるる案山子哉」と書いてあった。ああ此処にも隠れた味方があると嬉しく思ふ△門に貼った「幸徳」と「平民社」の名刺を持去った悪戯者があるので「幸徳が夜逃げした」と大分警察で騒いださうなり》
二十二日の項では《印刷所で刷り上り、取りに行く》とある。
活字上の発行日は二十五日であるが届け出より早めに刷らせたのであろう。
二十四日は《平民社騒然となる。活劇の評判が聞えたのか同志諸君が続々様子を聞きに見える……△十一時頃○君と×君を又調べる×君大に憤慨して荷物の風呂敷包を押拡げ、冷罵嘲笑二人の巡査を顔色無からしめて悠々去る……△此数日来数人の同志の苦心惨憺たる活動は到底筆紙に尽し難し「口より耳に」以外は沈黙日本も露国化する》と平民社への出入りが全て検問を受け、印刷物が厳しく調べられたようである。
二五日になると《初号発行の当日なり△予て用意の「平民社」の看板を懸け早朝から室を清めて差押えを待つ…新宿署の高等刑事徳元君が差押さえ命令書を携え来り残部八十六部押収して帰る秩序壊乱で発行兼編集人の私は告発された△国木田治子女史発行のお祝いを持って来て下さる、帰途例の通り巡査に捉って「これはおもちゃですよ」》とすでに発行日には手渡し、発送済みになり残部が八十六部しかなく官憲の押収を待ち構えていたことを明らかにしている。独歩の夫人が出入りをしていたことも明らかにしている。
二十六日の項には《『自由思想』注文が来る、買いに来る人がある、数人の同志が発売禁止の見舞いに来て下さる》
『自由思想』創刊号の発行
官憲は二五日の発行を前提に平民社に対して監視を厳しくしていた。
二十三日には《熱心なる五、六名の諸君来遊、さまざまな活劇がある》、
二十四日は《平民社騒然となる。活劇の評判が聞えたのか同志諸君が続々様子を聞きに見へる。
夜△君が門を出ると「其風呂敷包は何だ」と巡査が調べる、何でも無い朝日新聞だつたので極り悪さうに引込んだ△十一時頃○君と×君を又調べる×君大に憤慨して荷物の風呂敷包を押拡げ、冷罵嘲笑二人の巡査を顔色無からしめて悠々去る》。
平民社への出入りが全て検問を受け所持品のうちとくに印刷物が厳しく調べられ、それに抗して同志と官憲との「騒動」となったようである。
続けて《△此数日来数人の同志の苦心惨憺たる活動は到底筆紙に尽し難し「口より耳に」以外は沈黙日本も露国化する》と記され、届け出三日前に印刷済みの創刊号を官憲に悟られずに持出した同志たちの奮闘を暗黙に語っている。
最初の版が紙型まで廃棄させられたことへの怒りと表現の自由を守るという立場で同志たちが見事な連携の活動をとったのである。
『自由思想』の差押え
二五日に《初号発行の当日なり△予て用意の「平民社」の看板を懸け早朝から室を清めて差押えを待つ……新宿署の高等刑事徳元君が差押さえ命令書を携え来り残部八十六部押収して帰る秩序壊乱で発行兼編集人の私は告発された△国木田治子女史発行のお祝いを持って来て下さる、帰途例の通り巡査に捉って「これはオモチヤですよ」》と押収されたことを報告している。
しかしすでに発行日までに創刊号を予約者たちに手渡し、発送も済み、残部が八十六部しかない状況で官憲の押収を待ち構えていたことを明らかにしている。二十六日の項には《『自由思想』注文が来る、買いに来る人がある、数人の同志が発売禁止の見舞いに来て下さる》。
平民社への検問体制
二七日には《今日から来客の荷物を調べず一々姓名を調べることになつた》とすでに配布されてしまった創刊号の所持のチェックはさすがにあきらめている。三十日になると《向ふの貸家へ巡査が引越して来た》と実質の検問所までが設置されている。
三十一日に幸徳は新宿署、管野は警視庁へ喚ばれ《新聞紙法改正に就いて詰らないお達しを受ける為めなり》と恫喝が続く。
『自由思想』二号
第二号は早くも六月十日に発行され、「平民社より」で管野須賀子は記している。
《何しろ秘密出版が続々顕はれるので、政府のお役人も余程狼狽されたと見へまして、重なる同志には、近来総て尾行がつく様になり、殆ど手も足も出されないといふ始末で厶います。……物数奇な日本政府は斯くして多くの謀反人を製造して呉れるのでございます》
《初号を出し抜かれた腹癒せといふのでも厶いますまいが、本社などは其以来、昼夜交代で四人づゝの角袖が、八つの眼を光らして警戒して居ります、表口に二人、裏口に二人》(厶は「ござ」と読む)。
《本社と往来を隔てゝ其の屋敷がございます、数日前そこの生垣が破られて入口が出来、紅白の幕引廻した一間に一間半ぱかりの天幕が張られたので、オヤオヤ園遊会でもあるのかナと見て居りますと、其中へ籐椅子と床几が運ばれて、警戒のお役人がちやんと控へられたので少々呆気にとられました》
《一行紙片の印刷をもさせない、妨害しやうといふ政府の眼を掠めての仕事で御座います上……》と管野の一文を読めば漱石の描写は正確であることが判る。
また「ひとさまさま」という同志たちの消息欄があるが、そこで渡邊政太郎に関する項があり《旧社会主義同志会の驍将なる氏は近頃飴屋となりて太鼓を叩き市中を行商せり一名の巡査は常に此飴屋さんに尾行して市中を廻れり護衛つきの飴屋は神武以来蓋し之を以て嚆矢とす》と記述がある。
国民作家となる漱石の関心をひくほど過剰な監視がされていたわけである。
平民社の様子
「平民社を訪ふ」と題された訪問記が『自由思想』創刊号に掲載されている。筆者は霜堂という号、本名は不明。
「此志島中将、金森通倫、横井時雄、建部遯吾などいふ世に時めく人々の大厦高楼の列なる中に、秋水の家は相変らず見すぼらしい朽ち果てた黒板塀で、夫れでも門構への一軒立ちだ、」と周囲は当時の軍人、文化人の家が並んでいることを報告
「玄関の三畳には、カールマルクスの像が来客を威し付けるやうに掛つて居る、無政府党になつたと聞て居る男の家にマルクスの看板はおかしい、日本では社会民主党と無政府党とが連携して運動して居る、不思議な現象だ」と主義の違いを理解している。
「玄関を抜けると、意外に広い庭に面した縁側で、手前が六畳、奥が八畳、六畳は同志の談話室だとかで、一貫張の小机を中に三四人の書生らしい人と職人らしい人が愉快さうに何か話して居た、是れが革命家といふものかナと思つた」と同志たちの様子を描写している。
「八畳に呼込れた、秋水の書斎兼寝室らしい、……此机は張継の遺物で、奇麗な書棚は神川女史のだといふ、聞て見れば皆な借物だ」「六畳にはクロポトキンの小さな像、八畳にはバクーニンの大きな大きな額がある、」と細部の様子と主義に関わる品物に触れている。
参考
アン・ジュングンの伊藤狙撃に関しては翌年三月から連載を始めた小説の「門」で登場人物の会話で描写をしている。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨そうに飲んだ。御米はこれでもができなかったと見えて、
「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目な顔をして云った。御米は、
「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたいなような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」
平民社への監視のことなど、以下のブログに紹介。
http://nikkan100.exblog.jp/9038854/
赤旗事件、大逆事件などは下記サイトにアップしています。
http://members3.jcom.home.ne.jp/anarchism/anarchism-katsudo-danatsu.html
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